デザイナーのエルサ・ペレッティ(1940〜2021)は、1972年スペインで目にした、とある小さな民家を手に入れた。数千ドルという出費は、当時の彼女にとってはかなりの高額だった。だがそれ以降、彼女の運命は右肩上がりに好転していった。そして今、デザイナーとして彼女を迎えてから 年の節目に、アイコニックなジュエリーとデザインで知られるブランド、ティファニーはエルサの功績をたたえる3つの新アイテムを発表した。
それは彼女の代表作「ボーン カフ」をモチーフにしたボーンリング、スプリットリング、そしてパヴェダイヤをティアドロップ形にあしらった 金のボーンカフだ。有機的でセンシュアルなフォルムを持つこれらのピースは、エルサがデザイナーとなった 年前と変わらず、モダンであり続けている。
そして、これらのアイテムを見た私たちの心は、エルサが手に入れた民家のあるスペイン、カタルーニャ地方の村、サン・マルティ・ベルへと誘われる。満天の星の下、バラや藤の花に囲まれたこの家を見た瞬間から、彼女はこの家に惚れこみ、情熱をささげてきた。「カーサ・ペキーニャ」という名を持つこの家がある集落は、丘の中腹に位置し、当時は打ち捨てられていたが、彼女にとってはサンクチュアリであり、インスピレーションの源となった。エルサの父、フェルディナンドは大富豪だったが、堅苦しく保守的な家風に反発した娘への援助を打ち切ったため、彼女は自分の力で生きていくことを迫られた。そこでフランス語の教師や、スイス・アルプスのグシュタードでスキーのインストラクターなどをして生計を立てたのち、インテリアデザインの学位を取得。ミラノで建築家のダド・トリジアーニのもとで働いた。さらに 年にファッションモデルの仕事を始めると、バルセロナを拠点とし、この街があるカタルーニャ地方出身のアーティストと親交を深めた。建築家のリカルド・ボフィル、彫刻家のハビエル・コルベロなど、いずれもそうそうたる人物だ。彼らは皆、当時のスペインを支配していたフランコ独裁政権に反旗を翻し「ラ・ゴーシュ・ディヴァィン(神聖なる左翼)」という名で知られる知識人グループのメンバーだった。
68年にエルサは拠点をニューヨークに移し、そのキャリアを大いに花開かせた。モデルの仕事のかたわら、ジュエリーデザインにも取り組み、これがスペイン人の銀細工師、ヴィンセント・アバドとのコラボレーションにつながった。こうして作られたのが長いレザーのコード付きのペンダントヘッドだ。これは蚤の市で見つけた一輪挿しにインスパイアされたデザインだった。これがジョルジョ・ディ・サンタンジェロの目に留まり、ショーでモデルの一人がこれを着用する。ディ・サンタンジェロは当時、「オート・ヒッピー」の精神を体現する作風で知られたデザイナーだった。するとたちまち、このペンダントは大評判となった。
さらにエルサは、自身のモデルとしてのキャリアで見聞きしたものを、創作のヒントとして取り入れていく。例えばこの年、メキシコでの仕事から戻った彼女は、そこで目にした馬の鞍から発想を得て、これをシルバーで再現した、ベルトとして使えるアイテムを考案している。さらに70年代初頭になると、エルサは一世を風靡したデザイナーのホルストンと出会い、彼のミューズ的な存在の女性たち、いわゆる「ホルストネッツ」の一員となった。それからまもなく、彼女はホルストンのためにジュエリーのデザインを始める。どれも、この時代のスピリットを巧みに取り入れたセンシュアルなピースで、美しいシルクのコードの先に、曲線が特徴的な漆塗りの小さなボトルがついたロングネックレスはその典型だった。
その後74年に、ティファニーの招きに応じてデザイナーに就任すると、エルサは自身のインスピレーションの全てを、このブランドのジュエリーの注ぎ込む。前述のサン・マルティ・ベルで見かけた白骨化した蛇をヒントに、ネックレスのデザインを考察すると、その後すぐにサソリをモチーフにしたアイテムも加わった。彼女はその無限にも思えるクリエイティビティを画期し、ハート、バックル、ビーン(ライターやカフス、イヴニングバッッグなど)、ボーン、アップル、メッシュなど、実にさまざまなフォルムのデザインを世に送った。彼女のジュエリーがもたらしたインパクトは絶大で、その後数十年を経て、トム・フォードをはじめとするデザイナーに影響を与えることになる。
さらには60年代から70年代にかけて制作されたベルトをモチーフにしたピースをまとう彼女も、時代を超えて衝撃を与え続けている。エルサがサン・マルティ・ベルで保存した多くの建物の一つに、彼女がラボとして使っていた家がある。ここには彼女が残したスケッチが大量に保管されており、今では彼女の作品を紹介する展示の一部となっている。また、繊細な光沢を放つ中国の青磁の器など、彼女が収集した上質な美術品も、ここには陳列されている。
エルサが「自宅」と呼んだ家は、このサン・マルティ・ベル以外にも世界各地にある。ラタンを床材に使い、白を基調としたクールなマンハッタンの家。親友で建築家のロレンツォ・モンジャルディーノと共に作り上げたイタリアの家。さらにトスカーナ州の町、ポルト・エルコレの海沿いにも、一軒家を持っていた。ここでは暖炉には憤怒の表情を見せる古代の神のレリーフを設け、部屋の壁や天井には打ち捨てられた古代の神殿をモチーフにしただまし絵が描かれている。この絵はぽっかりと穴が開いた天井や、その穴から飛び出た木の枝まで描かれている念の入れようで、本当に頭上の空が見えるかのようだ。また、ローマにあるアパートメントは、モンジャルディーノの別の一面を反映し、より荘厳なしつらえとなっている。それでも、エルサにとって最も思い入れが深かったのは、サン・マルティ・ベルの家々だった。
この村にあるエルサ所有の家屋は、今では18棟を数え、加えて「マシア」と呼ばれるカントリーハウスが3棟ある。これらはすべて、文化遺産としてナンド&エルサ・ペレッティ財団の保護下にある。彼女が最初に手に入れた家は多額の費用をかけつつ、もとの姿を生かした形で改修され、今でもそのたたずまいは質素な民家のままだ。下階のテラスには表から見えない場所にプールが設けられ、庭にはあちこちに彫刻が配置されている。ダイニングエリアにつくられた高床式の暖炉も、エルサのデザインだ。さらにこれらのスペースでは、彼女が手がけた目を見張る作品が集められている(こことは別の塔に、エルサはバスルームを設けた。階段を上がって塔のてっぺんにたどり着くだけでも命がけだが、その眺めは絶品だ)。
次々と家屋を手に入れていく中で、エルサのヴィジョンはさらに壮大なものになっていった。かつて地元の税務署が入っていた、細長い石造りの建物の改装では、床が撤去され、建築家のランフランコ・ボンベリの手による銅張りの暖炉が据えられた。3階分の高さを持つその威容は、見る者に強烈な印象を残す(加えて、一番下の階には巨大な石臼が置かれた。これは室内で楽しむ娯楽向けの「テーブル」であり、かつてこの部屋で催されたパーティでは参加者の注意を促す「ベル」のような役割を果たしていた)。所有するブドウ畑の反対側にある農家を購入した際には、元の持ち主のお年寄りが、住み慣れた家をあとにすることなった。悲嘆に暮れるその様子を見たエルサは農業を営んでいた彼にそのまま家に留まるよう促し、二人はこの家で共に暮らした(エルサは2021年、80歳で亡くなっている)。
階上のベッドルームに続く、年月を経て黒ずんだ武骨な階段には美が凝縮されている。そして、部屋の一角の壁に飾られた、ティファニーの「パドバ」シリーズのカトラリーセット。注ぎ口も一体化した有機的なフォルムで、手にしっくりとなじむシルバー製のカラフェ。ろうそくを引き立てるカーブが美しい、牛骨をモチーフにしたキャンドルスティック――エルサが手がけた世界は、人を惹きつける力に満ちている。
Hamish Bowles
translated and adapted by Kyoko Osawa
November 06, 2024